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かはたれ時

 ちくま文庫の怪談シリーズを読んでいて、柳田国男の文章で目を惹いたところがあったのでメモがわりに抜き書き。日本語における「日暮れ」の語彙を調べようとしていた頃に書いた「かはたれ時」というものです。




柳田國男集 : 幽冥談 / 柳田國男著
東京 : 筑摩書房, 2007.8
393p ; 15cm. -- (ちくま文庫 ; [ふ-36-6] . 文豪怪談傑作選 / 東雅夫編)
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 黄昏を雀色時(すずめいろどき)ということは、誰が言い始めたか知らぬが、日本人でなければこしらえられぬ新語であった。雀の羽がどんな色をしているかなどは、知らぬ者もないようなものの、さてそれを言葉に表わそうとすると、だんだんにぼんやりして来る。これがちょうどまた夕方の心持でもあった。すなわち夕方が雀の色をしているゆえに、そう言ったのでないと思われる。古くからの日本語の中にも、この心持は相応によく表れている。たとえばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった。(p.307)

皆さんがあるいは心づかれないかと思うことは、人の物ごし背恰好というものが、麻の衣の時代には今よりも見定めにくかったということである。木綿の糸が細く糊が弱くなって、ぴったりと身につくような近頃の世になると、人の姿の美しさ見にくさはすぐ現れて、遠目にも誰ということを知るのであるが、夕を心細がるような村の人たちは、以前は今少しく一様に着ふくれていたのである。見ようによってはどの人も知った人のごとく、もしくはそれと反対に、足音の近よるを聴きながら、声を掛け合うまでは皆他処の人のように、考えられるのがケソメキの常であった。そうして実際またこの時刻には、まだ多くの見馴れない者が、急いで村々を過ぎて行こうとしていたのである。
 鬼と旅人とをほぼ同じほどの不安をもって、迎え見送っていたのも久しいことであった。ところがその不安も少しずつ単調になって、次第に日の暮は門の口に立って、人を見ていたいような時刻になって来た。子供がはしゃいで還りたがらぬのもこの時刻、あてもなしに多くの若い人々が、空を眺めるのもこの時刻であった。そうして我々がこわいという感じを忘れたがために、かえって黄昏の危険は数しげくなっているのである。(p.309-310)




柳田国男らしい詩的な文章が印象深いのですが、麻の衣の時代は体型が現れにくくて黄昏時には誰もが同じに見えるという指摘が面白い。こういう生活の細部の描写にふれると、はるか昔の暮らしが急に肌身に感じられるようになりますね。

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